今月の社内報冒頭文        鬼頭

皆さんお元気ですか。猛烈な暑さ、経験したことのない大雨など、異常気象といわれた夏もそろそろ終わり。春は芽を、夏は葉を、秋は実を食べ、冬は根を食べるといいますが、その実りの秋がやってきます。美味しい食べ物がたくさんあるのはいいのですが、夏の疲れが出るのもちょうど今どき。お互い体調には気をつけましょう。


さて、二八月と言われるように、私達の仕事は夏が閑散期に当たります。皆さんは時間に余裕があるこの時期をどう過ごされましたか。私は小学校の頃、夏休みの宿題は大嫌いで、「夏のドリル」などは、もらったその日でやってしまい、夏休みに入った時には宿題は日記と自由研究だけ、というのがお決まりでした。そして夏休みはご気楽に、自堕落に過ごし、残り3日になって慌てて日記を書いていました。出来事は全てでっち上げるのですが、その日の天気だけは覚えておらず、適当に書いては先生に叱られていました。


自由研究だけは好きでした。その頃から「自由に」というのが好きなんですね。教室の端から端まででもまだ足りないくらいの大年表を作ったり、全国の地場産業、名産品を事細かく書き込んだ巨大な日本地図を作ったり、様々な種類の釘を集めたコレクションを作ったりしました。当時母が仕事で出入りしていた国鉄の工事局というところに連れて行ってもらい、線路を固定する巨大な犬釘というものをもらい、鉄工場のおじさんの仕事場で様々なボルト・ナットを拾い集め、近所の大工さんのところに遊びに行って、大小様々な釘をもらい、小さくて短いものはベニヤ板を打つ釘、これは五寸釘、これはコンクリートに打つ釘などと説明書きをちゃんと書いてパネルに取り付けました。その自由研究は何とかという賞をとったと言われ、学校に保存するからと手元に帰ってきませんでした。


自由にやればいということがとてもお気に入りで、自由研究が好きでしたが、ある時、野の草花で押し花を作り、植物図鑑を作りました。図鑑で名前を少しずつ調べていたら、母がいいところがあると、岐阜の児童科学館というところに私を連れて行きました。そこでは夏の自由研究の特別セミナーのようなものが開かれていて、母はそこの植物学者のいるところに私を連れて行きたかったようです。事情がよくつかめないまま押し花帖を出すと、その学者先生が「よくこんなに集めたねえ」とほめてくれて、一つ一つ名前を書いたメモをはさんでいきます。やっと私は理解して、「名前は自分で調べるからいい」と断りました。けれど母は「そんなこと言わずに、せっかく来たんだから教えてもらいなさい」と言い、学者先生も、「ほらこれなんかはとても珍しい野の草で、図鑑にはなかなか載っていないよ。よく採取したね。」とほめてくれて、名前をサラサラと書いたメモをはさみました。私は気が弱いものだから、じっと下を向いてむくれていましたが、教えてもらうのではなく、自分で調べたかったのです。わからないなら分からないでもいい。誰かに簡単に教えてもらうのは嫌なのです。そんな性格でした。今でもその雑草の名前をよく覚えています。「ダイオウソウ」というのですが、その後草花へ興味が薄れてしまっので、本当に珍しいかどうかは知りません。


さて、余談が過ぎましたね。皆さんは夏の閑散期の貴重な時間をどのように過ごされましたか。それぞれの課題克服、新し技術に挑戦、接客についての本を読んだり、研究したり、革の種類、布地の種類、バックのお手入れ方法など、研究してみたいことは山ほどありますね。さらに夏の店長研修会もありました。今回の課題は「方法論と価値論」という、たいへん難しいものでした。少しでも理解してもらい、これからご自分でそのことの意味について考えてもらえるよう、その扉だけでも開けさせていただければと、いろいろと考え、悩みました。そのための講演も見ていただきましたし、チームによる研究発表にもお付き合いいただきました。


その後の皆さんのアンケートを拝見しました。とても感動された方、価値論についてかなりよく理解していただいた方、強い興味を持って、これからも取り組みたいと感じられた方、それほどでもない方、所詮身内話と感じた方、退屈だった方、重すぎてむしろ反感を覚えられたかもしれない方、本当に様々な方がおいででしたが、多くの方は刺激を受け、目を開かせてもらったと、心の扉を開いていただけたようでした。


様々な方がいていいのです。価値論は所詮人それぞれだと感想に書かれた方がおいででした。その通りなのです。人間は多様です。一つのものに対して、百人百通りの感想をもつでしょう。それでいのです。けれど、そのような感想を持たれた方に、一言だけヒントを差し上げます。価値論は人それぞれ、でいのです。けれど、そこはゴールではなく出発点です。出発点にとどまり、扉の向こうに一歩踏み出すことをしない方は、ずっとそこにいるだけですね。もし扉を開けることができたら、その先に無限の世界が広がっていることを知ることができるはずです。それを知らないともったいないような気がします。けれど扉は、夏休みの自由研究のように、自分で開けて踏み出すしかないのかもしれませんね。